SL

 昭和51年の全廃以降、リタイアしたSLが再び走り出した。昭和54年、山口線小郡-津和野間をファン待望の一番列車が走ったのだ。国鉄のそろばんでは、支出3億円、収入4億円だった。
 
 山口線で走らせたあと、SLはひっぱりだこになった。走っても大赤字、使える車両はあと三両だった。それでもSLは復活する。不定期で走る機会が増え、やがて鉄道事業として函館本線秩父鉄道線・高崎線大井川本線豊肥線で定期的に走るようになったのだ。
 
 SLの運用は職人技だという。しかし、工場からはSLの全体像がわかる人が去っていた。傷んだSLを手探りで修復して走らせるのだ。頼みはOBだ。

 甦ったSLをどう守り、生かしていくか。それは消える技術と迫る寿命との闘いなのだ。補修点検を受け持つSLマンたちは貴重な部品を探しに公園や小学校にあるSLをじっくり見て回った。即売会がある、と聞けば見逃さなかった。

 技術の継承も頭の痛い課題だ。育て後継者、という願いを込めて平成4年に500時間講座を開設した。

 SLに触れたい、という夢をかなえた鉄道マン。「電車はマニュアルどおりで済む。でもSLは一両一両に個性があるんだ。自分たちで部品をそろえ、機械を組み上げていく実感がたまらない」という。