農村



東北の冬は長い。冬は11月下旬から4月初旬まで続く。いわゆる農閑期だ。
 農民たちはこれまで、農閑期のあいだにせっせと俵を編み、山に入って炭を焼いた。ニワトリやブタの飼育、酪農に精をだした。来年の農業設計を立てるのもこの時期だった。

 「俵なんどはサ、機械で編んだってもうからねえだべサ。紙袋が普及しただでナ。炭かね。戦後の盛んなときは、毎年一万俵はくだらなかったべサ。いまじゃそうさナ、千俵ぐらいは出てるべサ。なんせ石油ストーブが出回っとるだでナ。農家だって炭などそうは使わねえ」
  こうして農民たちはこの時期、出稼ぎに出るようになった。残るのは女ばかりだ。「半年後家」という言葉はこうして生まれた。半年間、夫が不在なのだ。

「稼いでくるべサ」そう言って故郷をでたものの悪い手配師にだまされたものもいた。多くのものが苦しいけど見入りの良い土建の仕事に就いた。それは一番危険で厳しい仕事だった。事故があれば必ずといっていいほど犠牲者のなかには出稼ぎ者が入っていた。慣れない飯場生活で体を壊すものもいた。障害者になったもの、病人のなかにはそのまま行方知れずになったものも多かった。

 

 日本の農村に荒廃の影が忍び寄ってきた。農家は水田の裏作としての麦づくりをやめて、出稼ぎや兼業の賃労働に出てしまった。麦作りはそろばんに合わないのだ。麦を自由化した後、政府は安く買った外麦を高く売ったもうけで麦づくりの農家に価格保証をした。それでも労賃はコメの三分の一だった。やがて、財政負担が過重になり政策は破綻、麦づくりは「自然死」を待つばかりになってしまった。一時期、麦の自給率は2-5%だったが08年産で13%。政府が製粉会社に売り渡す価格は外麦が4月から30%上がり1トン当たり約7万円。国産小麦はつくるのに14万円かかり4万円程度で売る。差額は農家への所得補償として年間1千億円の税金が使われる。
コメの一部自由化を決めたとき細川首相は決断の会見で「コメの自由化は貿易立国である日本の国際責任」といったのだ。麦も例外ではなかった。国内に輸入麦(外麦)が大量に流入した。麦価は下がる。麦作りはますますそろばんに合わなくなったのだ。

食糧自給率は「国の安全」を測る物差しだ。その自給率も下がる一方だ。今年に入ってからの小麦粉の急騰ぶりは政策のツケなのだ。炭焼き産業が衰えると、山への影響は大きい。炭と麦の復権は農村の衰退に歯止めをかけると期待されている。